昭和43年4月7日 朝の御理解
中村良一
小倉の初代、桂松平先生は、この有難いお道を、世界万国に輝かさんと。そういう意気込みを持ってご信心を進められた。本当に、これは、桂先生ならずとも、銘々がおかげを受けて、この有難いお道を、この有難い御信心を、自分の周囲の誰彼に伝えたい。それこそ、世界万国にでも、伝えられるものなら伝えたいという様な願いを、これは、誰しも持つ事でございますけれども。その願いが、桂先生の場合は、そういう、大きなところにですね。思いをおいておられる。それが、先生の信心の、願いであったという事は、そのまま、そのお道の流れを頂いておる、私共も、その桂先生の御信心の、その願いというか、祈りというものを、受け継がせて頂かなければならない。というて、どうぞ神様、この有難いお道を、世界万国に輝かさん、世界万国に輝かしたいと、祈ったり、思うたりしただけではね。私は、実際、おかげは頂かれない。本当に、その有難いお道は、有難いお道として、自分が、本当に頂かせて貰う。同時に、世界万国の、どこのどういう人にでも、なるほどと、合点の行く、私は、信心。または、そういう、御教えが、私は、なからなければ、世界万国に、いわゆる、通用しない。金光様の御信心は、よその国の人には通用しないという様な事であったらならない。
これは、まぁ、世界の大宗教であるところの、仏教とか、キリスト教なんかというものは、ほとんど、仏教などはもう、東洋全国に渡って布教が出来た。キリスト教なんかは、もう、ほとんど、世界各国、隅々の国に至るまで、キリスト教を知らない者はないという様に、徹底しておる。それには、例えば、仏教の、いわば、原点とでも申しましょうかね。キリストならキリストが、教えられた、その事だけでは、そういう様な力は、そういうように浸透して行く内容は持っておっても、なかなか浸透しなかっただろう。それを、様々に、どこの誰にでも向くように、いわば、理解づけられた。そこに、私は、キリストとか、釈迦が亡くなられてから、次々と、次の、まぁ二代の宗祖、二代目の釈迦と言われる人たちがです。その原点を元にして、その教えの、いよいよ、深さ広さというものを極めて行かれた。そういう意味でです。これは仏教、キリスト教を、私共は、よく知りませんけれども。仏教、キリスト教にもないほどの、素晴らしい内容を持っておるお道の信心を、最近気づかされます。そして、本当に、世界万国に通用するなという様な感じが致します。けれども、それが、教祖の、その原点でありますところの、その御教え、経典というものがです。あのままでは通用しないのです。その御教えの、いよいよ、深さ、その御教えの、いよいよ、広さというんのを現わさなければ駄目なんです。
日本人には向くけれども、例えば、西洋の人、東洋の人には向かない。東洋と言うが、例えば、シナ朝鮮あたりの人には向かないと思う。日本人にだけしか、適用しないといった様な、狭いものでは駄目なんだ。ためには、やはりあの、教祖の御教えというものを、いよいよ、間違いなく、しかもそれが、深い、広い、しかも、天地の大道理に合った、いわゆる、大真理に合ったところの、私は、大教典にですね、して行くのは、これは、私共の責任だと思う。
現在、教団でも、教学が、非常に盛んになりました。ところが、その教学はです。一般の人に、ピンとこない感じ。いや、教団内の、私共ですら、分かりかねる様な難しい事。なぜ、結局、私はその、教学に、いうならば、生きたものが無い。最近、あらあらいう方達がある。おかげに繋がる教学でなからなければ駄目だと言われておる。おかげに繋がるところの教学、でなからなければです。私は、これは、世界各国に通用しない。そういう意味で、私は、合楽では、本当に、教祖の御教えくださる事を、いよいよ深く、いよいよ広く、理解づけてくださり。そして、私共のように、勉強もしておらない者にでも分かりやすく、それを説き明かして下さる。しかも、それが説き明かして下さる事が、はぁ、なるほどそうだなぁと、実感して、それが、行に現わされてくるところに、それが、必ず、おかげに繋がっておる。いわゆる、お徳に繋がっておる。これは、本当にこの、合楽にかけられた神様の願いというものは、そういう意味合いに於いても、大変なことだなとこう思う。そこで、ほんなら、現在、合楽にご縁を頂いておる、一人一人の信奉者の方達がです。その自覚に立って、私は、教祖の御教えを教学する。ただ、おかげを頂いて有難い。ただ、おかげを頂いて有難い。おかげを頂くから有難いから、あーたも信心しなさいという意味合いではなくてです。このように素晴らしい御教えを持っておる教団であるという事を、銘々が、私は、身に付けて、いよいよ、折ある毎に、機会を掴んでは、その、教祖の教えて下さっておることの、広さ深さを、自分の周囲にも、私は、布教して行かねばならん、私は、責任を、皆さんの、一人一人が持たれるようになったら、素晴らしい事だとこう思う。ただ、一生懸命に拝んで、おおかげを頂いたというのではなくてです。ね。
先日から、頂きます、御理解三節なんかの所を頂きましてもですね。その一節を頂きましても。神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所といった様に、説いてもですね。これでは、世界万国に通用しないのです。また、そのわけ知らず、無礼いたし、前々の巡りで難を受けおりというてもです。それでは、通用しないのです。他所には、神社仏閣というものが無いところがあるかも知れませんし、またよし、それに匹敵するものがあったにしてもです。それを、神様の地所として、例えば、分からしたからというてです。前々の巡りで難を受けおりという様なのは、そこに原因があるからと言われてもです。そういう事じゃ合点がいかんのだけれど。この頃の御理解、三節の御理解を頂かせて貰うとです。これはもう、世界万国に通用するのです。食物は、人の命のために、天地の神が、作り与えたまうものぞ、という様に、例えば、食物訓を頂きましてもです。例えば、現在、金光教で、説いておるような生き方では、はぁ、もうこれは、アメリカの人には通用しない。けれども、ほんなら、その本当の真意を頂かせて貰うと。はぁ、神様の、一粒の米でも、ひとしずくの、例えば、お醤油でも、神様が作って下さったものだから。これを大事にしなければいけませんよという事を、教えたってです。とてもそれは、シナや、アメリカあたりの人達には通用しない。けれども、教祖は、はっきり、そこに、命のためにと仰っておられるから。その命のためにという所をですね。焦点に押して行くならば、こりゃもう、世界全国に通用するです。ほんなら、こういう説き方をしておるのは、ここだけです。食物は、命のために与えられておるのであるから。命のために頂けとこう言うのです。粗末にするとかしないとか。その事はもう、第二、第三の問題であって、本当に、命のために頂いておるという事が、段々、分かれば、それをまた、お粗末にも出来ないというのは、自ずと出来てくる事である、分かってくる事であるけれども。お粗末にしちゃならんという事が、先に出て来るような、教え方では、世界万国には通用しないのです。という様に、その、教祖の御教えの中に、そういうものを、まぁ例えて言うならば、実に自然なんだけれども、不自然に感じる様なところが沢山ある。それを、ほんなら、ここで御理解を頂かせて貰うと、整然として、それが、世界万国に通用するような説き方がしてある。
桂先生が、世界万国に、この名教を、如何に名教をというたところでです。自分だけが、名教と、うぬぼれたってしようがない。ほんなら、どこが、名教かという事をです、知らにゃいかん。そら、おかげ頂くから、名教だと。今までは、天の恩を説いてあったけれども、地の恩なんか説いておる宗教が無い。だから、お道の信心は、素晴らしいんだというただけでは通用しない。そらまぁ、厳密にいや、天地の事は説いてある、仏教にでも、キリスト教にでも。それとは、表看板にしてないだけの事。
私達が、どうでも一つ、御教えを、いよいよ、深く、広く、身につけさせて貰うて。それを本当に、いわばその、ここで、頂いておる御教え、言うならば、教学をです、身に付けて、その教学が、そのまま生活の上に現わされて。健康の上にも、人間関係の上にも、経済の上にも。すべて、難儀の、あらゆる難儀という難儀の事が、その御教えに照らされて、おかげになってくる生き方をです。私共は、どうでも、させて頂かなければならない。そして、現在、私共が頂いておる信心の、どういう所を辿らせて頂いておるかと。皆さんが、最近、そこんところに、段々、目覚められてこられた方達が、段々出来てきた。こらぁ、大変なことだぞ。合楽の御理解、御教えというものが、大変なものだぞと。本気で、その事を考えてられるように、段々なって来たんです。ですけども、それが、ほんならですね。それが本当に、その教学が、おかげに繋がるという所までは行ってないという事なんです。ただ、今までは、おかげで示すという事もあったけれどもですね。やはり、その教学を身に付けて、おかげで示すと同時にです。そのおかげには、こういう教学が、こういう御教えがあって、このおかげであるという所をです。立証して行かなければならない。いわゆる、実証して行かなければならない。
この有難い、お道を、世界万国に輝かさんと仰る、桂松平先生の信心をです。私共が、ただ、言葉の上だけで受けただけでは、何時までたっても、世界万国に輝かす事は出来ない。輝かせるだけの内容というものを、私共は、知らなければいけない。世界の、どこの人にでも、有難いものとして、浸透して行くだけのものだという事を、確信を持って、自分の信心を持って、体験させて貰わなければならない。ですから、まぁ現在、合楽の方達が、どの程度におかげを受けておるかと言うとですね。今日はあの、小唄の文句にね。「梅は咲いたか」というのがありますよね。梅は咲いたか、桜はまだかいな。柳なよなよ、山吹ゃ浮気で、色ばっかり、しょんがいな」と言う,粋な歌です。ちょうど今、合楽の皆さんがです。例えば、ここで、こうして御教えを頂かせて貰い。日常生活の上に現わして、そういう所を、銘々が通っておる。梅は咲いたか、まだ、咲いているか咲いてないか分からないという所なんです。まだ、鶯が来て止まって無いという所。桜はまだかいな。爛漫たる、いわゆる、おかげなのである。桜は、まだまだなんだ。柳なよなよ。まぁ、ここで素直な信心。素直なというておる人でも、まぁだ現代、まだ、なよなよ程度であって、まだ、一人歩きの出来ない素直さであって。独り立ちの出来ない信心であって。まだ、なよなよの所である。そして、昨日の御理解。山吹ゃ、浮気で、色ばっかり、しょんがいなである。山吹ゃ浮気で、色ばっかりというのは、例えば、ただ、おかげを頂きたい、おかげを頂きたいという事じゃなかろうかと思うですね。おかげを頂きたいというのが、中心であるという。これが、私は、言うなら、色ばっかりの事じゃなかろうか。なぜって、それでは、おかげばっかりで、おかげをよし、頂いても、実が実らんのですから。そこで、私共がです、実るための信心。それは、やはり、お徳を受けるための信心。おかげは受け徳、受け勝ちとこう。まず、おかげはです、信心の徳を受けて、そして初めて、受け勝ちのおかげになるのである。受け徳と言うのは、まず、徳を受けるという事。まず、何というても、徳を受けなきゃならん。まず、何というても、徳を受けなければという信心。私は、今の、合楽での御理解を、実証して行くのはですね。はぁ、これが徳というものかというものを、日々体験していけれる事だと思うんです。
最近、あの、委員長が言っております様に、十分違や、十分の開き。十五分違や、十五分、おかげの和が違うてくるというのはです。もう、おかげじゃないです、これは。これはもう、力であり、徳なんだ。それだけ、はっきりと現わしていけれるという事は。だから、おかげよりも、その間違いのないという事が有難いのでしょうが。秋永先生は、それでしょうが、今。ね。間違いのないおかげを受けるけん、そりゃもう、有難くない事はないでしょう。けれども、その、違えば違うで、はっきりしておる、その事が有難いのです。いわゆる、身に徳が頂けて行きよる、その事が有難いのです。ですから、色ばっかり、しょんがいなと言う所からですね、いわゆる、そこんところが、本当に、私共の、信心の内容から、まず、おかげは受け徳、受け勝ちであるという。まず、身に徳を受けて、まず、身に徳を受けて、はじめて、おかげが、受け勝ちになるのである。そういう、受け勝ちと思われるほどのです、お徳を受ければ、限りが無くおかげは受けられる。そういうおかげを引っ提げて、そういうおかげを、踏ん前て、そして、教学を説けと、教えを説け。どこの誰にでも分かるように、ちゃんともう、準備はしてあるのだ。説いてある、教えてあるのだ。これなら、合点がいかん筈はない。自分がまず、そのおかげを踏ん前てのもの。そのおかげを引っ提げてのもの。
この世は、苦の世だ、苦の世界だと。思うようにならんのが浮世だ、という風に言われておる。確かに、そうなんだ。信心しよら、自分の思うごとなるという事じゃない。見方で、確かに、この世は苦の世なんだ。けれどもその、思う様にはならないけれども、思う以上のおかげにはなって行くというのが、お道の信心なんだ。思う以上の道が開けて来るという事は、そんならば、思いの通りにならない。その事をです、思うようにならない。その事を、自分の思うようにしようという信心は、一遍、捨てなきゃいけないという事。子供を、自分の思うようにしたいと思う。家内を、自分の言う事を聞かせたいと思う。そういう思いを捨てて、はじめてです。家内が、私が思う以上に働いてくれる。子供が、私の思う以上に、痒いところに手が届くように、親に仕えてくれる。そういうようになってくるのです。だから、その思いを捨てなければ。自分の思うようになりたいばっかりに、あなた、お参りしよるとですよと言う人もあるでしょうけれども。そういう人は、そういう人で、おかげを受けて、しかし、信心とは、こういうものだという事を分からにゃいけん。自分の思うようにしたいという。それは、痛ければ痛い、痒ければ痒いですから、お取次を頂いて、やっぱり、痒うないように、痛くないように願いますよ。お取次を頂くのですから。けども、それから先は、もう、お取次の金光様にお任せしなさいという事なんだ。そして、そこから分からせられるもの。それはね、なぜ、この世が、思うようにならぬが浮世であるか。または、この世は苦の世であるか、苦の世界であるか。また一つ、考えを翻させて貰うとです。あれもおかげ、これもおかげ、今日こうやって、お生かしのおかげを頂いておるという事だけだって有難い。こうやって、日々、何の不自由もなしに、生活が出来ておるという事だけでも有難い。有難いものは、沢山出てくる。その有難いものと、いうなら、有り難くないもの。この世は苦の世苦の世界と言う。いわゆる、難儀な問題と、それとこれとが一つになって、合体した時にです。そこから生まれてくるものが、良いものなのだ。いうなら、陰と陽が合体して、そこから生まれてくるのが、思いもかけないものが生まれてくるのだ。だから、これを、取り払う事は出来ないのだ。困ったことだ、難儀なことだというものをね、取り払うちゃならんのだ。それは、陰と陽のようなものなんだから。その、有難いと分からせて頂く、有難いものと、思うようにならない、その事が一つになって、初めて、いわゆる、良いものが生まれてくる。
私は、今、ここへ着かせて頂いてから、今日の新聞、お道の新聞の所を、ちょっと見せて頂いたら、高橋正雄先生の夫婦道という、そのお書物が出ております、その内容を紹介してあったね、ちょっと。夫婦間の性生活から、子供が産れる。その大きな事実に、深い反省を加える。人間の生きて行く真のあり方を求めるのが、夫婦道であろという様な見出しで書いてある。夫婦のそれが、子供を生み出していくように、そこに、道をつけてある。今日、私が言うのは、そこから、ヒントを得て、今の話はさせて頂いている。私共が、思いもかけない、全然、まぁだ、見た事も、聞いた事もないものが生れてくる。未知のもの、知らないもの。夫婦の生活から、それが生まれてくるようにです。私共の、有難いと思う事と、有難くないと思う事、いうならば。この世は、苦の世である、苦の世界である。思うようにならぬのが、浮世と言う。その思うようにならん事と、思うようになる以上の事とが、一つになって、生まれてくるのが、思いもかけんとか、思い以上のものが生まれてくる、そこから。これは、陰陽の道理である。だから、私共の生き方の中からです、難儀な事、困ったことを取り払うと言うのではなくて、その中から、それ以上の良いものを生み出していくという所に、お道の信心の素晴らしさがあるのです。ただ、そういう様なものを、本当に現わして行かなければいけない。そういう様なものを、本当に、世の中に現わして行かなければいけない。そして、そのあらわれてくるものをです。さぁ、これを見て下さい、と言えれる信心。
私はね、良くその、私を見て下さいと言う。これはね、人間な分からん。ごまかしが出来る。私を見させて、如何に、立派にしておっても、内容がどうじゃら分からん。けども、現れてくるおかげは、これはもう、絶対なものだから。器量が良いか悪いか、子供の器量が良いか悪いか分かる、直ぐ。こげな可愛らしい子供が生まれました。分かるでしょうが。腹の中に入っとる間は、男やら、女子やらすらが分からんじゃないですか。私を見て下さいじゃなくて、まず、このおかげを見て下さい。金光様のご信心をさせて頂いとら、このおかげを見て下さい。そうして、このおかげが生まれてくる訳は、こういう訳で生れてきたんですよと、教学的に説いて行かなきゃいけないです。そういう、私は、おかげをです。皆さんが頂いて貰わなきゃならん。現在の、合楽の方達の場合は、そこん所の、もう一歩手前にある。自分達の思いをちょっと変えられりゃ、そういうおかげの受けられる、一歩手前にある。もう春だ、もう、梅は咲いたか、桜はまだかいなというところなんだ。柳なよなよである。これが、確固なものになって行く。お互いの、ただ、昨日の御理解で頂くとです。合楽へ合楽へと、いわば、草木もなびく様な風があっても、それが、山吹だけではつまらんて、私が言う。実が無い、実が無い。その山吹は、色ばっかりで、しょんがいなである様にですね。いわゆる、おかげだけを求める信心が、千万集まったところで、これは、大したことはない。信心は、おかげは( 音声途切れ )お導きである。私はですね、お導きというのは、ふうたら温いと思うですね、そういう思い方は。私は、布教だと思うです。教え教えて行くのだ。その教えを、だから、今、合楽では、芯から、根から、分かれよ分かってくれよと、こう、日々頂いておるようにある。銘々が、布教師の気持ちになってですたい。これを、布教して行くところに、これならばです、世界万国に、輝かせていけれる基礎が、段々、出来てくるのだと思う。訳の分からない教えを、いわば、引っ提げて行ったところでですよ。これは、どういう意味ですかと言ったって、分からんでしょうが。誰でん合点がいかんでしょうが。これならば合点が行くという、私は、御教えを持っておらなければならない。その御教えには、しかも、こういうおかげが伴うという事まで、持っておかなければならない、実証的なものが。それでいて、私は、初めて布教が出来る。
私共は、桂松平先生のご信心を、こうして、受けに受け継がせて頂いておる。先生の、ご誠心であるところの、この有難い御教えを、この有難いお道を、世界万国に輝かさんと仰った。本当に、私共は、その桂先生のご遺志を、奉戴して、そして、いよいよ、銘々がです、布教の場に立たなければならないと、私は、そういう風に思うです。合楽の人達には、そういう、私は、願いが掛けられておると、私は確信しております。ですから、皆さんも、そのつもりで、その自覚に立っての、教えを頂くという事になり、教えを表して行く事になってこなければならんと思うですね。どうぞ。